ライブ&キャッスル
2007年11月13日(火曜日)
遅くなりましたが南福島へBEGINのライブを観に行った時に唯一、観光した場所があるのでブログに書きま~す。
そうで~す、またまたお城で~す。(笑)
今回は道中の会津にある会津若松城(鶴ケ城)に行ってきました。

会津若松城(鶴ケ城)
1384年に芦名直盛が築城し、伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝らが入場した東北屈指の城です。
蒲生氏の時代には七層の天守閣がつくられましたが、江戸期初期・加藤(嘉明)氏の時代に西出丸・北出丸を増築、天守閣も五層に改められました。
その後は、三代将軍家光の異母兄弟にあたる保科正之を初代藩主に九代226年にわたって「松平氏」が代々の城主になりました。
白虎隊の悲劇を生んだ会津戊辰戦争(1868年)では、官軍の攻撃を受け、籠城戦を展開しましたが力およばず開城。
現在の天守閣は明治政府によって取り壊されたあと再建されたもので、天守閣内部は資料館になっています。
天守閣からは会津盆地が一望でき、晴れた日には(白虎隊の自刃の地)飯盛山を見ることもできます。平成13年には食料や武具の倉庫だった干飯櫓や南走長屋も再建され、天守閣から直接見学できるようになりました。

天守閣から観た景色です。
このお城は天守閣から外に出れるタイプのお城でした。
でも中は大阪城みたいに鉄筋作りの展示室作りになってて階段もビルの階段って感じでした。
うーーーーーん、残念。まあ消失したのを外観だけ再現だからしょうがないですけどね。

麟閣
麟閣は、千利休の次男少庵が蒲生氏郷のため、若松城内に建てたと伝えられ、江戸時代の初期から中期にかけて現在の様式に改めたと考えられる茶室です。 戊辰戦争の後、城下へ移築されていましたが、平成2年に建造当初の城本丸内に、移築復元されました。麟閣のすぐ後ろには、茶壺櫓があります。
氏郷は、千利休の弟子であり「利休七哲」の一人として数えられています。氏郷は利休が豊臣秀吉の怒りにふれて切腹を命じられた際、千家が途絶えないように利休の子少庵を会津に引き取っていました。

天守閣拝観とセットになったお得なチケットを買ったので麟閣も観てきました。
丁度、紅葉が満開でとても綺麗でした。(^^♪
そうで~す、またまたお城で~す。(笑)
今回は道中の会津にある会津若松城(鶴ケ城)に行ってきました。

会津若松城(鶴ケ城)
1384年に芦名直盛が築城し、伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝らが入場した東北屈指の城です。
蒲生氏の時代には七層の天守閣がつくられましたが、江戸期初期・加藤(嘉明)氏の時代に西出丸・北出丸を増築、天守閣も五層に改められました。
その後は、三代将軍家光の異母兄弟にあたる保科正之を初代藩主に九代226年にわたって「松平氏」が代々の城主になりました。
白虎隊の悲劇を生んだ会津戊辰戦争(1868年)では、官軍の攻撃を受け、籠城戦を展開しましたが力およばず開城。
現在の天守閣は明治政府によって取り壊されたあと再建されたもので、天守閣内部は資料館になっています。
天守閣からは会津盆地が一望でき、晴れた日には(白虎隊の自刃の地)飯盛山を見ることもできます。平成13年には食料や武具の倉庫だった干飯櫓や南走長屋も再建され、天守閣から直接見学できるようになりました。

天守閣から観た景色です。
このお城は天守閣から外に出れるタイプのお城でした。
でも中は大阪城みたいに鉄筋作りの展示室作りになってて階段もビルの階段って感じでした。
うーーーーーん、残念。まあ消失したのを外観だけ再現だからしょうがないですけどね。

麟閣
麟閣は、千利休の次男少庵が蒲生氏郷のため、若松城内に建てたと伝えられ、江戸時代の初期から中期にかけて現在の様式に改めたと考えられる茶室です。 戊辰戦争の後、城下へ移築されていましたが、平成2年に建造当初の城本丸内に、移築復元されました。麟閣のすぐ後ろには、茶壺櫓があります。
氏郷は、千利休の弟子であり「利休七哲」の一人として数えられています。氏郷は利休が豊臣秀吉の怒りにふれて切腹を命じられた際、千家が途絶えないように利休の子少庵を会津に引き取っていました。

天守閣拝観とセットになったお得なチケットを買ったので麟閣も観てきました。
丁度、紅葉が満開でとても綺麗でした。(^^♪
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